日々のおでかけ記録

町並みや気になった場所の記録

石川県小松市の喫茶店 TEA ROOM泉/パーラーアコ

少し前に石川県の小松に行ったときに立ち寄った、二つのお店です。
どちらも老舗のようで、たまりませんでした。

訪問:2023年6月

TEA ROOM泉

まずは小松駅にも近いアーケード商店街、猫ばし飴屋通りの途中にあるTEA ROOM泉です。
商店街の他のお店には無いような入り口で、看板が無ければ素通りしてしまうところでした。

入り口手前にあるメニュー表。味がある。


入店したときには誰もいませんでした…笑
カウンターに座って店主さんを待つ。
席数は意外と多めですかね。
壁は石材が使われていますが、見た目的に小松市の山のほうで採れる日華石ではないかと思います。


店主さんがいらしたので、コーヒーを注文しました。
やわらかい日差しが差し込む静かな空間。さわやかな日曜の朝でした。

コーヒー350円

この時はついに誰とも会わなかったのですが、奥まったところにある隠れ家的な感じがして落ち着きました。

 

パーラーアコ

先ほどのお店では食べ物は無さそうだったので、マークしていた二つ目のお店へ。
商店街からすぐのところにあるパーラーアコ

入ってみたくなる外見でしたが、中も素敵でした。


こちらのメニューには今ではやっていないものも書いてありますが、とてもレトロに感じられて良いです。外に出す看板みたい。


今はこちらのメニュー表を使っているみたいです。
手書きだと雰囲気が増しますよね。

モーニングセット700円

日曜はゆで卵がサービスとのことでつけてもらいました。
気さくな店主さんで、心穏やかになる。


このお店は2023年で創業55年だというのだから驚き。
そして店主さんはなんと92歳…!とてもそうは見えませんでした。
今でも年中無休でお店を開けているそうで、とんでもない若々しさだと思いました。


あとはこちらのオーディオもこのお店の特徴で、レコードを持ってきたら流してもいい、とおっしゃっていました。
オーディオがお好きなようでした。

お店と商店街。
いやはや、Googleマップを見て良さげな感じがしたので来てみましたが、すごいお店でした。


帰り際にカードを貰っちゃいました。かわいいデザイン。
マッチとかカードみたいな形に残るものは嬉しいですよね~

 

北陸の難所、親不知の旧国道8号を歩いた

新潟県糸魚川市の親不知は、切り立った崖が海に面している地形で、古くから交通の難所として知られていますが、明治時代に国道8号が開通します。
それから戦後に崖の中を貫くトンネルができるまで使われていた旧道は、現在は歩道として開放されています。

訪問:2022年4月


旧道の始まりは国道8号沿いにある親不知観光ホテルから。
このときは北陸本線の旧線を見に行くのが主目的でしたが、そちらもここから行けます。


ホテル前の道路が既に旧国道8号なのです。
ジオパークということで、わかりやすい案内板もあります。


眼下にかつての北陸本線の跡が見える。。
こちらが気になった方はのブログ記事も見てみてください。


先ほどの地点の真下には北陸本線のトンネルがあるので、歩いて反対側まで出てきました。
トンネルがある場所から旧道に上がる階段がなかなかハードでした…笑


旧道を富山方面に向かって歩いてみる。
1883~1966年まで使われていたこの道の、かつての姿が残っています。


先ほどの看板にもあった、3種類の防護柵。
最も崖際にある石柱が初代で、錆びたワイヤーのものが2代目でしょう。
この道路の歴史が具現化したような一角でした。


とりあえず富山方面へ進む。こう見るといまでも通用しそうな道路ですが、国道8号だと考えるとさすがに狭い。
ここを人や馬や車はもちろん、バスも行き交っていたのだからすごい。。


現役の8号にあたったところで歩道の終点です。



新潟方面にあるこのトンネルが、1966年に開通した天嶮トンネルです。
北アルプスの端である親不知の岸壁をくり抜いたこのトンネルの開通により、崖際を行く道路は役目を終えました。


対岸に目を向けると、そちらにも旧道らしきものがありました。
あれも当時の8号の一部でしょう。


旧道を引き返してスタート地点へ向かいます。海側には新しい柵が並んでいますが、国道だった当時は外側にある低い壁だけだったのでしょうか。
この下は断崖絶壁です。。

道路沿いの岩壁に、矢如砥如(右から読んで、とのごとく やのごとし)と刻まれています。
砥石のように滑らかで矢のようにまっすぐという意味ですが、いかにこの道路の開通が喜ばれたのかということが伝わってきますね。

天下之嶮

この道路が開通する前は崖の下の海際を歩くしかなかったということを思うと、現在では細く感じるこの道も偉大なものに見えますね。どれだけ安全性が上がったか…!


これは建設中の写真だそうです。
岩を削ってなんとか平坦な道を確保したという感じに見えます。
これでも荒波におびえながら波打ち際を歩くより良いですよね。

下に見える日本海はとても澄んでいました。川が無いからかな。
昔はわずかに砂浜があったようで、そこを通っていたんですね。


新潟方面にはこの道路の詳細な解説がありました。
この区間にまつわる、色々な恐ろしいエピソードやスポットなどが紹介されています。
個人的に親不知と言えば、悲惨な歌詞の合唱曲(歌詞)も印象深いですね。。


この区間は波打ち際、旧国道8号、現在の国道8号北陸自動車道の四つで、四世代道路と言われているようですね。
この旧道の建設のきっかけが明治天皇にあるということもおもしろい。

前日に撮った、夕日に照らされる親不知

旧道の新潟側の端からは、日本海に飛び出した北陸自動車道を見ることができます。
この区間は走ってもおもしろいですよね。


最後に、親不知観光ホテルに飾ってあった当時の写真を。
この道路が旧道になった直後、1967年の写真のようですが、このころはまだ砂浜が残っていますね。
東西を行き来するにはここを歩かなくてはならなかったとは恐ろしい。。

この日の朝の海岸の様子。富山方面。

ちなみにホテルの下あたりの海岸には降りることができますが、やはり砂浜は全くありませんね。
天気がいい日だったけど比較的波はあったので、いかに厳しい場所なのかがわかります。

 

阿賀野川の三日月湖、十二潟のまわりを歩いた

今回は地理が好きな人のほとんどが好きであろう、三日月湖(河跡湖)のまわりを歩いたときの話です。
教科書通りの様子で楽しかったです。

訪問:2022年10月

三日月湖・十二潟


新潟市の北区、阿賀野川の右岸にある十二潟の北端へやってきました。
地図で見ると小さな水辺ですが、思ったよりは大きい(昔は90m近い幅があったらしい)
ここがいつ頃に阿賀野川から離れたのかはよくわかっていませんが、1818年編纂の地図では既に独立していたようです。


かつて阿賀野川の流路が変わったときに取り残された潟で、古阿賀とも呼ばれています。
様々な水生植物の群生地になっていて、自然豊かな印象を受けました。

スイレン科のコウホネ


かつては潟に張った綱を手繰って進む、たぐり舟というもので対岸へ渡っていたようです。
湖岸には新しめな舟がありました。イベントか何かで使うのかな?


北端から阿賀野川のほうには小さな川が流れていました。
かつてはこの方面が阿賀野川の本流だったのですね。


潟の南端まで、外側に続く集落を歩きながら向かいます。
近くにある県道からは十二潟までの行き先案内板が並んでいるので、行きやすい。


このあたりはまだ普通の住宅街という感じですね。
地面はサラサラしていそうな砂でした。


道路沿いにあった建物。もと商店だと思われます。

食品衛生協力の店


道路が潟に近づくところ。
外側の自然堤防上の砂地に畑が立地する、河川跡らしい風景です。

豊栄市の境界杭


十二潟には橋が二つ架けられており、それによって3つに区切られた潟をそれぞれ上池・中池・下池と呼ぶそうな。
この橋の右が上池、左が中池です。

上池の様子。何の変哲もない池のように見えます。
幼い頃に近くにこんな水辺があったら遊んでいたかもなあ。


近くの小学校では校外学習(総合かな)の題材に取り上げているようです。
ガガブタを擬人化したと思われるお姉さんのキャラデザが良いですね~

再び潟沿いの道を進む。十二潟の由来となったと思われる町はこのあたりなんですね。

しばらく潟が見えにくい道を歩いて二つめの潟を渡る道路へ。
向こうには田んぼが一面に広がっています。
左の下池側に広場がありますね。

未来に残してほしいものです

この広場はコウドという舟の渡し場の跡地のようです。


ここは十二潟と触れ合うスペースなのかもしれませんね。
こういった展示を見ると自分の小学生時代が少し思い起こされますね…笑


潟に面したベンチ。
水面には水草がたくさん浮いています。時おり魚が顔を出す様子も見えますし、鳥の姿もありました。
自然豊かです。


南の端を目指して下池沿いを歩いていきます。
この道路のある部分が、周りより一段高くなっていることがよくわかる場所がありました。
右側に十二潟がありますが、これぞ自然堤防ですね~!

潟の解説が目立たないところにありました。昔の写真も。


また少し歩いて潟の南端までやってきました。
もう潟が終わって水路になっている部分ですね。


十二潟の南端から阿賀野川のほうを見る。
やはり昔はここが大きな川の本流だったとは思えない風景ですね。
阿賀野川に残る唯一の三日月湖として、これからも残り続けてほしいものです。

(参考)

十二潟 | 潟のデジタル博物館(新潟市公式)

阿賀野川の旧河道の名残「十二潟」のガイドブックのご紹介! | 阿賀野川え~とこだ!流域通信

 

白亜の殿堂・喬柏園(旧柏崎公会堂)

地域住民のための施設として、公会堂は多くの地域にあります。
公的で町の中心的な施設である公会堂は、外見も立派なことがよくありますが、今回行ってきた新潟県柏崎市にある旧公会堂もそんな建物のひとつです。

訪問:2023年9月

柏崎公会堂 外観

柏崎市の中心地から少しだけ離れた住宅街に塔付きの立派な建物があります。
こちらが喬柏園とも呼ばれた旧柏崎公会堂。現在は市民活動センターとして開放されています。


奥のほうもきれいになっていますが重厚な雰囲気があります。
鉄筋コンクリート造の地上2階(一部3階)の建物で、塔屋と地下室があります。
完成した1938年当初は壁が白く、"白亜の殿堂"と呼ばれていたそうです。


車寄せにある円柱が印象的ですね~これがあると非日常な感じがします。神殿感?がたまりません。

もちろん登録有形文化財

1階


内部は公共の施設となっていますが、雰囲気はすばらしいですね~
天井の飾りも、階段も!

これを読めばだいたいのことがわかります

部屋割りは当時のまま、市民に開放されています。
中越沖地震情報ルーム(旧読書室)から交流・活動ルーム(旧大食堂)を覗く。


こちらは旧日本間。一段高くなっていますが、側面がおしゃれですね。

他には、演者や講演者のための特別客室と浴室なんかもあります。
上階に講堂がありますが、公会堂ならではの設備だと思います。


重厚感のある階段を上って二階へ行ってみます。

2階・講堂

2階に上がると休憩スペースのようになっていました。
続けて塔屋へ上がる階段もありますが、こちらは閉鎖。
手前には柏崎公会堂の歴史が解説されています。
この建物が日中戦争中になんとかして建てられたこと、太平洋戦争中は迷彩柄に塗られたこと、公会堂として様々な行事に使われたことなどがわかります。


2階のほとんどは講堂になっています。
ここで色んな行事が行われたほか、市議会が公会堂内にあった1955~1968年の間は議場としても使われていたようです。
現在は自由に使えるみたいで、勉強中の学生がたくさんいました。


小中学校のステージみたいな感じ。
脇の飾りも素敵じゃないですか。

地下室


最後に地下室へ。
地下は正面側の一部があるのみで、現在は中越沖地震の記憶を伝える場となっています。

ここの面白いところは、公会堂ができた当初は洋風の建物と生活習慣が広まっていなかったため、この地下室(下足交換室)で一度靴を履き替えてから館内を回っていたということですね。


下足の汚れを落としていた洗い場と、水をくみ上げるポンプが現存しています!
貴重ですね…

傍らには、地震で変形したグレーチングが展示してあります。


こちらの階段から下足交換室に入り靴を預け、向こうの階段で1階へ上がっていたそうです。

一通り見まわったのでこれで終了です。
柏崎には何回か来たことがありましたが、こんな立派な公会堂が残っているとはしりませんでした。
現在も市民へ開放されているということで、良い使われ方をしているなあと感じました。

閉鎖された京成立石駅前の町並み

東京都葛飾区でのライブ参加のついでに、立石の駅前を歩いてきました。
この駅は味のある商店街がありますが、北側では再開発計画が進んでおり、町の店全てが柵に囲われるという状況になっていました。

訪問:2023年10月


葛飾区、京成立石駅
駅のすぐ前にアーケード商店街が伸びています。良いフォント。

駅の北側を見ると、通りに沿って続く商店街がずっと白い壁に覆われています。
再開発のための立ち退きが完了したようですね。


今回一番気になっていたエリアの様子。吞んべ横丁という名前の横丁でした。
横道まで完全に立ち入りができないようになっています。

入り口にある居酒屋。正面から見てみたかった。


横丁に面したセガアミューズメント施設。
この細い路地の中で輝いていたのでしょうか。


出入り口の足元にあるタイル


ちなみに通りのほうの入り口もありました。
やはりこちらは全く町並みがわかりませんね。。

横丁を進んで行くと、木製の枠が立っています。
少し前まで、ここに呑んべ横丁の看板がありました。
ほんと、閉鎖される前に来たかったです。


薄暗く細い路地を進む。
シーンとしていて、通過する人もほとんどいません。
周りには人の気配がするのに、ここだけ隔離されたように静か。


フェンスの隙間から横道を覗く。
なんと屋根付き、、、アーケードというより、密集した店の間に屋根を渡したような感じ。

お隣の横道も。まさにもぬけの殻といった様子。
真ん中の電灯やお店の名前も光っていたんだろうなあ。。
この空間だけでかなりの寂寥感を感じることができます。


横丁はクランクのようになっています。
角を曲がると、各店舗から運び出された物の数々。
向かいにあるマンションも誰もいないみたいです。


日が傾いていく。


がらんどうになった店先に、調度品が置かれる風景。


横丁を出てきました。
この一角だけきれいに囲われています。
何年後かにここに来たら、その変わりように驚くことができるでしょうね。

ライブが終わった後、駅の南側が気になって再び来てしまいました。

南側に伸びる商店街に来てみましたが、やはり行ってみて正解でした。
こんなにアーケードのある通りが張り巡らされているなんて。


夕飯は少し離れたところにあるこちらの食堂で。
今回は食事だけでしたが、飲んでも楽しそうだなと思いました。
こちら側もしっかり歩いてみたいですね。。

 

使われなかった迎賓館 新津記念館の外装

実は新潟県は石油や天然ガスなどの採掘が盛んな土地でして、それで財を成した方もいました。
今回はそのうちの一人が新潟市に建てた、使われることのなかった迎賓館を見てきました。

訪問:2022年9月

砂丘の上の迎賓館

新潟市中央区新潟大学附属病院が建つ丘の上に、新津記念館は建っています。
お城のような門と塀の奥に、大変立派な建物が見えていますね。


門をくぐると全貌が見えてきました。
タイル張りでこれぞ近代建築と言った外観。
竣工は1938年で、地上三階・地下一階の鉄筋コンクリート造の建物です。
建設したのは新津恒吉という人物で、石油の採掘が盛んだった現在の出雲崎町に生まれ、石油の精製と販売によって財産を築きました。
彼が興した新津石油という会社は、後に他2社と合併して昭和石油となりました(のちに昭和シェル石油→出光)
あと、この方がすごいのは、この新津記念館だけではなく、私財を投じて新潟市公会堂を建てたことですね。
ちなみに公会堂は現存せず、今は市の芸術文化会館(りゅーとぴあ)が建っています。

入り口のアーチやレリーフが良いですね。
新潟県で初めて登録された登録有形文化財(建造物)だというのもわかります。

アーチを支える石柱。
元々あった自宅の敷地に建造したからでしょうが、後ろにある和風の門とのギャップを感じる。

入場料は800円でしたが、中の写真撮影はできませんでした。
それぞれ様式の異なる一階、二階の部屋や、ホールにあるステンドグラスがそれはもう見事だったので、是非とも実際に見に来てほしいなと思いました。

ステンドグラスがデザインされた記念品をもらいました

内装をじっくり見た後にお庭へ出ました。
こちらからの眺めも素晴らしい。
中で係の方から解説を聞きましたが、この建物は外国の人を迎え入れる迎賓館として建設をしましたが、戦争が始まってしまったことで遂にその用途で使われることは無かったようです。
戦後は10年間GHQに接収され、その後1992年に新津記念館としてオープンしました。

すぐお隣には1928年に建てられた新津恒吉の自宅。
大変立派ですが、こちらは公開されていないようです。

奥にはの字が入った蔵。
これが石油王の自宅。

恒吉翁のご子息(養子)、義雄氏の表札が掲げられています。
この方は新潟で様々な事業を展開する、丸新グループを興しました(新津記念館もこのグループが管理しています)

最後に住宅の入り口から続く階段を。
ここは小高い丘のふちに立地しているので、町の様子をよく見ることができます。

敷地内で高低差を感じられるのが良いですね。
大豪邸です。

 

新潟市の地下街・西堀ローサを歩いた

新潟市中央区の繁華街、古町には西堀ローサという地下街があります。
開業したのは1976年で、バブル期にピークを迎えた後は業績が低迷し、最近はその存在が危ぶまれています。
つい先日、運営会社の解散とテナントの退去が要請されたと報じられ、このまま終わってしまうのか…と考えてしまいます。

訪問:2023年12月

7th Avenue

跡地には150mのタワーが建つ予定

運営会社解散が報じられて2週間ほど経った12月上旬の古町。
2020年に閉店した新潟三越の建物が一等地の交差点に残っています。

そのはす向かいには2010年まで大和新潟店がありましたが、現在は市役所や大学などが入る古町ルフルが建っています。
その一角に、地下へ降りる立派な階段があります。ここから西堀ローサに入って行きます。

入ってすぐにある石の展示。
西堀ローサの"西堀"とは文字通りの堀で、1964年まで地上には水が流れる堀が存在していました。
この石は工事で発掘された護岸の一部だそうです。

古町ルフルのあたりが西堀ローサの中心部ですが、まずは北から見ていきます。
端にはトイレがありますが、その真ん中にあるスペースは…?

この時はイベント用の器具が置かれていましたが、これは公衆電話のスペースだったのではないかと思います。それか自販機かな?

右側にある佐渡の食材を扱うレストラン、おすすめ

端っこから南側を見通す。
長さは330mほどありますが、ガラガラというほど人がいないわけではありませんね。

とはいえ、シャッター商店街のようになっている区画もあります。
一方で、空きスペースを使って自分のお店を開くことを後押しするような施策も行っているようです。

中央部から北側は7thアベニューと呼ばれています

西堀ローサの地図。こう見ると出入り口がたくさんあるということがわかります。

中央部へやってきました。
ここは西堀通り柾谷小路という二つの大通りが交わる古町の中心部の地下にあたります。

中央部にある広場に行く前に、手前にあった公衆電話の跡地。
ケーブルが出入りしていたであろう部分がふさがれています。
レンガ調で雰囲気がありますが、階段は何かの水が漏れているのか、流れができていました。
今年で47年目という年月が感じられます。

出逢いの広場

ここから大きな見どころであるローサ出逢いの広場を見ていきます。

地下街の中心に位置するこの広場ですが、デザインがおもしろい!
たぶん今何かの施設を造ったとしてもこのような雰囲気にはならないでしょう。
ドーム状の天井に這っていくツタに、床はチェッカー柄です。
自分が幼い頃は、チェッカーになっているあたりが泉のようになっていて噴水なんかもあったなと記憶しています。


ドーム状になっている天井の中央にはなんとも高貴そうなタイル画が配されています。
いったいどういうコンセプトだったのか…こういう時代だったのでしょう。

たぶんこれは噴水があった頃の名残でしょう。

柱や天井にあるタイル画は「バラと少女のタイル画」という題名。
なんとイタリアで製作されたそうです。本格的。。

ROSAの文字が堂々と掲げられています。
この先でNEXT21と直結しています。
NEXT21はかつてラフォーレ原宿が入居していた高層ビルで、今は新潟市中央区役所が入っています。

壁際にはバスの時刻表が表示されるモニター。待合室としても使われているのかも。
バスの一部はBRTと呼ばれていますが、BRTもバスも変わらないのでは…と多くの市民が思っていることでしょう。
このBRTという名称も廃止が検討されているようです。

定礎石もありました。
冒頭でも触れた、解散する運営会社はここに名前がある新潟地下開発株式会社新潟市の三セクです。

6th Avenue

ここから後半、6thアベニューへ入ります。
ちなみに西堀ローサの区画の名前は、ここの住所が西堀前通6番町、7番町であることが由来となっています。

7thアベニューと同じく、写真を撮る場所によってはシャッター街のように見えてしまいます。
空いているお店はアパレルが多いですね。

少し進んだところにあるこのシャッターは…と思いましたが、位置的に新潟三越への連絡口でしょうね。
三越と大和とラフォーレに繋がっていたとはすごいことですが、全て撤退してしまったということが悲しいですね。

もうすぐローサ歩きも終了です。
この先、端っこにあるレコード屋さんには高校生の頃から寄っていました。

そのレコード屋のあたりから。
ここまで歩いてきましたが、やはり個人的には全体的に好きな雰囲気です。
これが無くなってしまうのは惜しいなあ。。。

地上へ出ました。
ビルや施設に直結するところ以外の出入り口はだいたいこのような感じです。
一身上の都合でもうすぐ新潟を離れるので、次に来るときはどうなっているかわからないと思い、歩き通してみましたが、やはり行っておいてよかったですね。
最後にレコード屋でレコードを一枚買い、西堀ローサを後にしました。

古町の衰退は長い間叫ばれていますが、そう言われているのも少しわかったような気がします。
商業施設が撤退して代わりに行政が進出していますが、やはり市を代表する繁華街として一層人が来るような場所になってほしいですよね…まあ私の世代は栄えていた頃の古町を知らないのでいまいち想像できないのですが(親や上司から話を聞くくらい)
市も、新潟駅から古町までを「にいがた2キロ」として力を入れていますが、2キロは少し長いし、万代まで歩くのは余裕でも、そこから古町まではあまり寄るような店もないのでそれがきついなと感じます。
バスも思ったより高いし、これでは若者は万代で止まってしまうと思います。
10年ほど前、私が新潟島内の高校に通っていた頃は、三年通して古町で遊んだのは一回だけで(今は無き大竹座ビルでボウリングを…)あとは新潟駅前がメインでしたね。
とはいえ、古町はいいお店もたくさんありますし、全く寂れているとも感じません。
また、三越の跡地にオフィスと商業施設と住居を合わせた高層ビルが建つということなので、そこに期待したいですね。
できればローサもそれが完成するまでもってほしかったのですが…